Now or Never

一期一会の話をする。

一期一会というか、大きな後悔をした話というか、
情けない男の話をする。

もう7、8年前の、夏の終わりの頃だったと思う。
今でも、思い出すと苦い思いが蘇る。

僕は夏の休暇を使い、列車を利用して旅行をしていた。

名古屋から富山へ向かうため、JR特急ワイドビューひだに乗車した。
名古屋駅から乗車した僕は、指定席のチケットで買った、
廊下側の座席に腰を下ろした。隣の、窓際の席は空席であった。

名古屋駅を出た列車は、すぐに、次の停車駅である岐阜駅に到着した。
すると、老齢の女性が車内の出入口に現れて、僕が座っている席の場所へやってきた。
僕は、隣の席の方だろうとすぐに立ち上がり、彼女を隣の席へ通した。
彼女は愛想の良い方で、僕に笑顔でお礼を下さった。

列車が岐阜駅を少し走り出したところだったか、彼女はバッグをごそごそと漁り、
何かを取り出した。
おもむろに、僕へ「これをあげる」と言い、5枚の煎餅を手渡してくれた。
お近づきのしるしだろうと思い、丁重にお礼を述べつつ、
手に持った煎餅をよくみると、名古屋の銘菓、坂角総本舗の「ゆかり」であった。

僕は恐縮した。煎餅は薄い型の、さほど大きくもないのだが、1枚あたりおよそ
100円はするではあろう、そんな単価の高いお菓子を5枚もいただいた。
煎餅といえど、その昔、尾張藩侯への献上品とも知られた由緒ある品物だ。
僕のような、どこの馬の骨ともわからない、ただ隣に座っているだけの者に、
いや、兎に角、ありがたいことだ。

なんだか小さな声で「いただきます」と言い、パリパリと齧った。
「いやあ、やっぱり美味しいですね」とか「ご旅行で?」などと、
会話を広げれば良いものの、どうやらいつにも増して頭の回転が鈍っていたようだ。
気の利いた言葉などは何も思い浮かばなかった。
沈黙と煎餅を嚙み砕く音が、むしろ、気まずさを作ってしまったようで、
己の才覚の無さを呪った。

僕はここで気づいてしまった。
彼女の足元にキャリーケースがあることに。
僕は自分の目を疑った。
なぜ、彼女の乗車時に気づかなったのだろう。
僕は、またも自分の頭の鈍さを呪った。

キャリーケースを、僕が荷棚に載せれば、彼女は足元がとても楽になるだろう。
老齢の女性が、決して広くはないそのスペースに、膝を曲げて座っているではないか。
キャリーケースは、荷棚に載せなければならない。
一声かけてあげなければ。

岐阜駅を出てしばらく走った列車は、出発時のざわめきも静まり、
車内はすっかり落ち着いていた。
「そのお荷物を棚にあげましょう」
僕は、車内が落ち着いた空間へ変わったことにタイミングの悪さを覚え、
なぜかその一言が言い出せなかった。
ああ早く言わねば、などと考えていると、彼女は、僕に行き先を尋ねてきた。
僕は富山まで行くと伝えてから、僕から彼女へも行き先を尋ねた。
彼女はまた笑顔で答えてくれたのだが、しかし、年配の方の強い方言と、
滑舌が多少良くなかったのか、残念ながら聞き取ることができなかった。
聞き返すのも失礼と考え、僕は、ああそうですかと曖昧な笑顔で返事をした。

またここで僕は失敗をした。きちんと行き先を聞き返すべきであった。
彼女の行き先がわかれば、荷物の件を明確にできたかもしれなかった。
彼女が、もう次の駅で降りるのであれば、荷物の件を詫びて、
申し訳ないと済ませたこともできただろう。
しかし、彼女が下車する駅がまだ先だとわかれば、
ここぞとばかりに荷物の話を切り出し、荷物を荷棚に移すきっかけになっただろう。

彼女は、次の駅では降りなかった。
その次も、またその次も。

そんなことを逡巡している間も、列車は無情にも進んでいく。
やがて、列車は高山へ着いてしまった。
そして、ここでも彼女は降りなかった。

高山から富山へは、この列車はあと5つしか停車しない。
既に声をかけるには時機も遅い。そしてもはやおかしいだろう。
僕は完全に失敗をした。
僕は完全に機を逃した。

結局、彼女が降りたのは、終点である富山の一つ手前の、越中八尾だった。
降りる彼女のために、僕は席を立ち上がった。
彼女は、ありがとうと笑顔でいいながら、ハイこれあげる、
とバカうけとかっぱえびせんの2袋を僕に手渡した。
驚きながら、ありがとうございますとお礼を言うのが精一杯だった。

彼女が降りたあと、僕は激しく後悔をした。

なぜ、あんな簡単な一言が出てこなかったのだろう。
なぜ、荷物のことを謝ることすらできなかったのだろう。
彼女は笑顔で温かく接してくれ、頂き物まで下さった。

後悔もさることながら、たった一言の言うことができない自分に愕然とした。
彼女が居なくなった席の向こうに見える景色を、斬鬼の念にかられていた僕は、
まるで憶えていない。

もう彼女には会うことはないだろう。

彼女は、もはやこの出来事を憶えてすらないだろうし、
気にもされなかったかもしれない。
人からみれば些細な事かもしれないが、
しかし、僕にとっては大きな衝撃だった。
自分の不甲斐なさを、僕は決して忘れることはできない。
彼女がくれた「縁(ゆかり)」に、僕は何も報いることができなかった。

機会は、一度しか訪れないのだ。
機会は、決して逃してはならない。
僕はそのことを身にしみておぼえた。