通勤ショートショート

通勤の電車内では、様々な人間がいる。
そして、様々な人間の顔を、ひとつひとつ覗くことができる。

・化け物

僕は、通勤電車に乗る際は、優先席の前に立っていることが多い。
帰りの車内では、その優先席にいつも見かける人物が2人いた。
一人は、巨漢の男性。
肥満からであろう、着ているシャツは腹が捲りあがり、常にヘソが顔を出している。
もう一人は、女性。
歳は若くみえる。容姿に無頓着なのか、化粧気がなく、髪の毛はパサパサでボサボサと乱れている。衣服はいつも適当に着合わせているとみれる。

とある地下鉄の駅から乗車をすると、その二人は、対面にして必ず優先席の端に座っている。何をそんなに疲れているのか、その二人は必ず眠っている。
男性は、時には、顔を窓に投げ出すような恰好で、大きな鼾をかいて眠っている。
また、夏の時期になると、彼はとても臭う。
汗をかいたのか、風呂に入っていないのか、そんなことは知る由もないが、兎にも角にも臭い。
疲れていようが眠っていようが構わないが、煩い鼾とにおいには我慢がならない。
彼の反対側に立てば、その女性が眠っている。
彼女は、隣の席が空いたり、または、自分の目の前に人が立つ度に目を開ける。
その彼女の目つきは、とても恐ろしい目つきをしている。
神経質そうな、恨めしそうな、苛立ちを抱えているような、関わり難い雰囲気で、近寄りがたい。

ある日、僕はロングシートの席に座っていた。
ふと、優先席に目を向けると、そのいつもの女性が眠っている。
彼女が寄りかかっている席の白い袖仕切板を越えて、その彼女の、数十本の髪の毛が垂れ下がっていたのだ。
声には出さなかったが、僕は「ヒッ」と驚いた。
生気のない髪の毛が、ゆらりゆらりと、柳の木の枝のように揺れている。
僕は、何だか怪談に出くわしたようでとても怖くなった。
異臭と雄叫びのような鼾を放つ獣のような男と、幽霊のような女を、僕は「化け物」と名付けた。
僕は、このままでは運気も精気も吸い取られるのではと恐ろしくなり、次の日から乗車する車両を変えた。

・魔女

帰宅途中、とある駅から乗車をする女性がいる。
彼女は、黒い。
兎に角、黒い。
全てが、黒い。
腰まで伸びる真っ黒な髪の毛。
足首まであろう、長袖の真っ黒なワンピース。
ペシャンコの四角い黒い鞄。
そして、黒い革靴。
どういうわけか、眉毛は薄く、顔色は青白い。

その強烈な見た目は、闇深く、何か絶望的だ。
彼女と目が合えば、僕は呪われるのではないかという恐怖に陥る。
彼女の格好が、趣向なのか流行なのかどうかは知らない。
僕は彼女を「魔女」と呼んでいる。

・名演技

ある女性が、いつも優先席に座っている。
その女性は、いつも軽やかな演技を披露してくれる。
その女性は、いつもスマートフォンを眺めている。
電車が駅に停車すると、彼女はそっと眼を閉じて眠りにつく。
電車が駅を出発すると、彼女はパッと眼を開けて起きだして、スマートフォンを眺めだす。

電車が停まり、動き出すたびに彼女は同じ事を繰り返している。
眼を閉じ、眼を開き、また閉じ、また開く。
彼女を見かける度に、彼女は同じ事を繰り返している。

優先席は、席が必要であろう特定の方へ譲ることを周囲に促すために設けられている席だ。
つまり、彼女は席を譲りたくないのだ。
彼女は、優先席の意味を理解している。
もし、優先席が必要であろう人が彼女の前に現れて、そして彼女が目を起きていた場合、彼女は「譲る」という行為の選択に迫られるかもしれないのだ。
だから、彼女は思いついたのだ。
優先席に座り続けるために寝たふりを繰り返すという技を。
彼女がもし、身体に何らかの事情を抱えているのであれば、その演技をする必要はないのだ。
彼女は、気づいているだろうか、その演技が少なくとも僕には見抜かれていることに。
しかし、彼女にとっては、誰かに見抜かれていても関係ないのかもしれない。たとえ軽蔑されようとも、卑しまれようとも。

彼女は、あの場所で必死に生き抜いているのだ。

彼女の揺るぎない姿勢には、ただ敬服するばかりである。
その揺らぐことのない気持ちを抱いているのであれば、寝たふりなどせずに、むしろ堂々と座っていれば良いのになとも思う。

優先席は専用席にあらず、譲らなければいけない席ではないのだから。

繰り返すが、電車に乗っていると、様々な人間がいる。
そして、様々な人間の顔を、ひとつひとつ覗くことができる。