7月の終わりに福山へ来た時に、いつもながら日中はどう過ごそうかと模索していたところ、
井原鉄道高梁川橋梁という橋が岡山県にあることを知った。
橋の全長は716mと中々の長さ、倉敷市と総社市に跨っている。
特徴としては、この鉄橋は大きく曲がっていた。
というわけで行ってみた。
福山のホテルを出て、井原市へ入り岡山方面へ向かった。
山間の平地を東へと東へと進んだ。目に映るのは、緑に輝く田園風景とどこまでも澄んだ青い空だった。
僕の乏しい語彙力では、美しいとしか形容できなかった。
ダイナミックに曲がる鉄橋はとても迫力があった。
どこから良く撮れるのか、どこに車を停めることができるのか、わからずにウロウロしていた。
立派に撮れそうだと目ぼしい場所があったが、ぼくはそこで撮ることを躊躇った。
そこは人がいたり多くの車が往き交う場所だった。
情けないことに、僕は人目を気にして恥ずかしいなと感じて二の足を踏んだのだ。
撮影場所を探している時に、ぼくは小さな集落に迷い込んだ。
清音古地という美しげな地名をしたその小さな土地は、
高梁川の堤防の裏に、浅い浅い盆地を形成した典型的な後背湿地を成していた。
盆地の斜面には、日当たりの良い南向きに家屋が並んでいた。
低地には、狭いながらも水田がいくつか広がっていた。
妙なところに迷いこんでしまったと、車をUターンさせて再び車を走らせようとした時だった、
助手席側の窓から見えた水田に農作業をする老夫婦の姿があった。
水田の左端から耕運機を走らすお爺さんの後ろ姿と、
右手の畦でいかにも農夫姿のお婆さんが農作業をしている様子が、
眩しい午後の日差しとまだ泥の多い田圃の重さの入り混じった、
当たり前の日常とその光景と空間に、僕はブレーキを踏んだまま一瞬時が止まったかのように眺めていた。
しかし、僕は何を思ったのか、アクセルを踏み鉄橋の方へと車を走らせてしまった。
しばらくしてから、急に僕はとてつもない後悔に襲われた。
一体なぜ僕はあの一瞬を撮らなかったのか。
田植えの進んだ来月は同じ光景はやってこない。
一年後、同じ時期に来たとしても同じ光景に出くわすとは限らない。
僕はシャッターチャンスを逃したのだ。
カメラは悲しげに助手席に転がっていた。
いつしか車はUターンのできない狭い一本道を走っていた。
鉄橋でも水田でも、どうしてあの時カメラを手にしなかったのか。
上手く撮れようがそうでなかろうが、人がいようがいるまいが、
そこにカメラがあったのなら僕は行動をするべきだったのだ。
何となく車を停めた場所から撮った鉄橋は、
別に一眼でなくても良いただ遠くから写しただけという散々なものだった。
到底、納得のいくような、ましてや人様に見せれるようなものではなかった。
チャンスは一度しかやってこないということを身を以て学んだ一日だった。
福山へ戻った僕はJFEの撮影をした。
しかし、日中の出来事が心のどこかで凝りを残していた。
そして来年もまた行くだけ行ってみようと、チャレンジを誓った。